第7回みらさぽ絵画・作文コンクールで730通を超える応募の中から文部科学大臣賞、
「障がい者のくせに、こっちに寄るなって言われたんだ。一緒に遊んだことも、ご飯を食べたこともあるんだよ。僕、何かしたのかなあ…。」無表情でそう語るいとこは、懸命に心を押し殺しているようでした。
私は今、聴者とろう者で作り上げるサインミュージカル(手話ミュージカル)に参加しています。
最初は使う言葉も、育った環境も違うのにどうやって仲良くなれば良いんだろう、と不安でいっぱいでした。ですが、表情やジェスチャー、目線などを活用することで心を通わせられるようになり、ろう者の友達をたくさん作ることが出来ました。しかも、学校の先生や友達から「表情が豊かになったね!」、「態度や行動に自信が出て来たな」などと褒められるようになりました。厳しい指導のもとで、仲間と楽しみながらも真剣に演技の練習を重ねているからでしょうか、日常生活にも良い影響が出ているようです。表現力や協調性、何事にも動じない精神力は、社会でも演劇の世界でも必要なものです。ミュージカルの公演は九月二十八日、二十九日にあるので、自分の力を最大限に伸ばしています。
今、振り返ってみると、長いようで短いような、短いようで長いような道のりだったと思います。オーディションで「聴者でありながら手話を覚えようとする意志が強く感じられた。これからの努力に期待して」という理由で魅力的な魔女の役に選ばれたとき、心の中では逃げ出しそうになっていました。ある出来事がきっかけで参加したものの、私に乗り越えられるだろうか、荷が重い、最後まで努力出来るのか…。弱音がぐるぐると脳みそを埋め尽くしそうになった瞬間、心を焼きつくす怒りと胸を凍らせる悲しみが、「痛み」となってよみがえりました。そうだ、何も知らない弱い自分を、変えたいんだろう?自分自身に気合を入れるように問いかけて、弱音を追い払いました。そうして、がむしゃらに走りつづけています。「手話表現がおかしい」、「動きがぎこちない」、「立ち位置に違和感を感じる」、「今のお前は魔女じゃない、人間だ」…。数えきれないくらいのダメ出しをくらい、決して強くない心が折れ、もげ、ぐちゃぐちゃになりながらも、なんとか這い上がって来ました。人は、死ぬ気でやればそれ相応の結果は出ます。
こうして、大切な仲間と熱心に練習に励む中、またあの日の「痛み」が私に襲いかかりました。
せっかくの夏休みなのだから、普段よりも更に濃く、深い演技指導がしたい、という指導者の熱い思いにより、私達は合宿先へ向かうバスに揺られていました。メンバーが手話をしながら笑い合い、気持ちを弾ませていると、あっという間に目的地に到着です。乗車賃を払おうとすると、バスの運転手がねちゃねちゃとこびりつくような声で言い放ちました。「早くお金を出して下さいよ。…は?ちょっと何言ってるか分かんないですね、はい。あと、車内で変な…あれ何ですか?指文字?みたいなの使わないでもらって良いですか、気味が悪いし周りのお客様のご迷惑になるので…」少し代金を払うときにもたついていたメンバーが車外に出た後も、その男はべらべらと話し続けていました。乗客は全員顔を伏せていて、何を考えているのか分かりませんでした。あの日より何倍も強い「痛み」が、体をくいあらしました。ああ、あの笑顔が可愛いいとこは、食べることが大好きないとこは、カナヘビを捕まえるのが得意ないとこは。こんな「痛み」を、受けていたのか。あまりにも強い、怒りと悲しみで、視界が真っ白になりました。もう少しで泣いてしまいそうで、メンバーの顔を見上げると、彼らは強く、優しく、涼やかに笑っていました。
私は合宿が終わると、すぐにいとこの家に向かいました。いとこは疲れを隠した笑顔で「どうしたの?」とだけ聞きました。私は、今自分がミュージカルに参加していること、そこで体験したことを全て話したあと、「あんたは何も悪くない。私はあの日、何も言えなかったけど、それは私が弱かったせい。何も知らなかったせい。寄り添う勇気がなかったせい。私の自慢のいとこは、誰も傷付けてない。今までよく耐えたね」と伝えました。その夜、初めていとこは大声で泣きました。
私は今回のミュージカルを通して、ろう者と聴者の皆さんに、互いに退け、蔑むことはどれほど恐ろしく悲しいことなのか伝えたいです。自分の世界から踏み出すチャンスは、案外近くにあるということも。そして、いとこや、いとこと同じような思いをしている子ども達が、腹いっぱい笑える人生を歩めるように。この舞台を、ミュージカルを成功させることが、私の挑戦の第一歩です。
「あっ!みーちゃん。」
思わず大きな声を出したぼくを見て、妹がびくっと動きを止めた。くりくりした目いっぱいにみるみるなみだがたまって、丸いほっぺたにぽろぽろあふれてこぼれていく。
「みーちゃんのー。」と妹が言いながら、チョコレートが入ったぼくのお皿を引っぱった。
「それぼくのだよ。みーちゃん、自分のはもう食べたでしょ。」
ぼくは、お皿を引っぱり返した。妹が手をはなさないので、こわい顔をつくって、顔を妹にぐっと近づけた。妹がギャーっと大声でなく。
「ちょっと、なかさないでねー。」とお母さんが遠くから言った。
「ちがう!みーちゃんが…。」とぼくは言った。ぼくのおやつを勝手に食べようとしたのは、妹のほうだ。だが、そのせつ明をする前に、やってきたお父さんがいつもの話を始めた。まだ三才だからわがままを言うけれどやさしく教えてあげるように、という話だ。ぼくはお兄ちゃんだから、広い心でゆるしたり、かわいがったりしないといけないそうだ。
妹はぼくが五才の時に生まれた。生まれたての妹をだっこした時、小さくてかわいくてむねがドキドキしたのをおぼえている。ぼくは、妹のために何でもしてあげたいと思っていた。ぼくは毎日、妹のなみだをふいたり、わらわせたりした。妹はずっと、天使みたいにかわいいと思っていた。
ところが、せい長して歩いたり話したりするようになると、妹はかいじゅうみたいになった。ぼくが何かを持っていると、すぐにほしがる。かすとかなりのかくりつでこわされるので、かさないでいると、しくしくとなく。かわいそうになってかすと、やっぱりこわされてしまう。ぼくがついおこると大なきして、まるでぼくが悪いみたいになる。ぼくはそんな時、すごく悲しい気持ちになる。だがもっと悲しくなるのは、お母さんとの大事な時間をジャマされる時だ。
ぼくのお母さんは仕事をしていて、ぼくがお母さんとすごせる時間はとても短い。ねる前のひとときがぼくにとっては本当に大事な時間だったが、妹はぼくがお母さんの横にねて、くっついたりすると、
「お兄ちゃんはだめ。みーちゃんのママ!」と言って、ぼくをおしのける。お母さんが注意すると、大きな声でなきだす。そういう時、ぼくは妹とお母さんから少しはなれて、せ中を向けて一人でねる。
お母さんが、「夜中には、ちゃんと皐樹の横でねているからね。」と言ってくれるのをぼくは信じている。
だが、ぼくはずっと、お母さんやお父さんはぼくより妹のほうがかわいいのかもしれないと思っていた。そう思う時は心がぎゅっとなって、さびしかった。
けれどもぼくは、さい近あることに気づいた。それは、三才のころのぼくにはお母さんを取り合う相手がいなかったということだ。ぼくは、当たり前のようにおもちゃも一人で使っていた。妹が生まれて、ぼくはお母さんを一人じめできなくなったが、妹は初めからそうだった。そう思うと、お母さんに一生けん命あまえていく妹が、少しだけいじらしく思えた。
妹はわがままかいじゅうだ。だが、かわいい時もある。ぼくがおじいちゃんの家に何日かとまると、ぼくに会いたいとないたりするらしい。ぼくの後ろをちょこちょことついて来たり、お母さんと同じような口ぶりでぼくのことをほめたりなぐさめたりもする。それから急にぼくにだきついてきて、「お兄ちゃん、大好き!」と言ったりもする。ぽっちゃりした妹は、ぽよんぽよんとしていて、だきつかれると何だかやさしい気持ちになる。妹はとても重い。だがどうにかおひめさまだっこをしてあげると、ものすごくうれしそうな顔をする。その顔を見ると、ぼくもうれしくなってくる。
この前、家ぞくで出かけた時、ぼくは妹の安全をまかされた。ちゅう車場でお父さんがに物をつむ間、妹と手をつなぐ役目だ。手をはなしたら、急に走り出して事こにあうかもしれない。ぼくは、ぜっ対にはなさないと決めて、妹のぷっくりした小さな手をしっかりとにぎった。妹もぼくの手をぎゅっとにぎってきた。ぼくはこの時、妹をとても大事だと思った。かいじゅうでも何でも妹はぼくのかけがえのない妹だ。ぼくは家ぞくが大好きだ。家ぞくのきずなは相手を思いやることのつみ重ねから生まれるのだと思う。ぼくは、きずなを深められるような毎日を送っていきたい。
両親と兄二人、姉二人の我が家は、両親が決めた約束事があります。特別なことがない限り、全員そろって夕食をとることです。両親が共働きなので、午後十時近くに食事をとることもありますが、みんなで囲む食たくは最高です。学校であったこと、職場であったこと、世の中の出来事など、みんなが思い思いに話します。また、そのことについて、だれからともなく意見やアドバイスが出ます。母は忙しく、料理が少なかったり、スーパーの総菜など、時には手抜き料理もあります。だけど、毎日の食事が楽しく、この家族に生まれよかったと思う時間です。
実は、昨年までは、この光景が普通で、特別なものとは感じていませんでした。姉が県外の大学に進学し、ぽっかり空いた席ができて、初めて気づいたのです。七人の大家族で一人欠けても、大したことがないように思われるかもわかりませんが、我が家には大きな穴が開きました。
もちろん、これまでも修学旅行や合宿などで、姉が夕食にいないことはありましたが、何日も続くことはありませんでした。それは、両親やほかの兄弟も同じです。
いつもわがままで、お姉ちゃん風を吹かしていた姉ですが、定位置にいないと夕食が盛り上がりません。いつも意地悪でしたが、ぼくのことを「赤ちゃん」「マーコちゃん」とからかう声がないと、とても寂しく感じました。
県外に進学してから初めて帰省する五月の連休はとても楽しみでした。ぼくは、毎晩ふとんに入って、あと何日と数えながら心待ちにしました。
「お姉ちゃん今日何時に帰ってくるの」「まだかな、待ち遠しいな」「駅までお迎えに行かないの。」
時計が気になって、朝から何も手につきません。
「ただいま、今帰ったぞ。」元気なお姉ちゃんの声に、ぼくはリビングを飛び出しました。
「おかえり。」「マーコちゃん、元気にしてたか。お姉ちゃんは会いたかったぞ。」そう言って、頭をなでてくれました。
「おみやげあげるからな。マーコちゃんの好きなおしゃぶり。」と言ってお菓子をくれました。
その日の夕食は、久々に全員そろってにぎやかでした。メニューは、季節外れでしたが、お姉ちゃんのリクエストで鍋になりました。いつも通り、お姉ちゃんが鍋ぶぎょうです。
「はい、みんな待って。よっし、食べろ。」お姉ちゃんのかけ声に、ぼくの気持ちは最高でした。いつもは、みんなが、それぞれに話しかけるのですが、この日は姉の独りぶ台でした。大学のこと、サークルのこと今までたまっていたことをいっぺんに話しました。ぼくは、楽しくて、たまりませんでした。その日は、夜遅くまで夕食が続きました。
歯をみがいてお姉ちゃんに言いました。
「ねぇー、今日は、ぼくの横でねて。」「赤ちゃんだから、ねてやるか。」姉は笑いながら答えました。
実は、もう一つぼくの家には特徴があります。子供たちは、全員大きな子供部屋でふとんをならべてねることです。各自の子供部屋はありません。成人した兄姉、高校生の兄、中学生の姉も全員同じ部屋でね起きします。ねる場所も決まっていません。その日の気分で、並ぶ順番も変わります。そして、場合によっては夜ふかしし、夜遅くまで話すこともあります。
お姉ちゃんが進学するまでは、広いところでゆっくりねたいと思っていましたが、せまいところで、ふとんを取り合い、ゴチャゴチャねることが幸せだと気付きました。
いつもいっしょに、にぎやかに過ごしていた家族だからこそ、一人欠けただけでもさびしくなる。そのさみしさは、計算通り七分の一ではないことが分かった。これが家族なのだろう。
ぼくたちも成長していつまでも家族全員がいっしょに過ごすことはないと思う。兄や姉は、それぞれ新しい家族ができ、ぼくもそのうちに新しい家族ができるだろう。だけど、ぼくたち兄弟姉妹と両親のつながりは、一緒に夕食をとり一緒にねた期間がある限り、いつまでも変わることはないはずだ。本当に、仲の良い我が家に生まれてよかった。両親に感謝、ぼくたちを産んで育ててくれて、ありがとう。
今、ぼくがこうして生きているのは、家族の支えがあってのこと。心から
「ありがとう。これからもよろしく。」
と家族に伝えたい。
小学二年生の時にいじめによるPTSDと診断され、学校に行きたくても行けない状態になった。当時は、いじめ防止対策基本方針や障がい者差別解消法の施行前で、被害児童の心の回復に寄り添う支援や合理的配慮について周囲は正しく理解できない感じだった。
それにより、長い間、ぼくも家族も苦しんだ。いじめそのものも辛かったけど、その後の周囲の無理解の方が苦しかった。小学校生活の大半を〝助けてください。学校に戻りたいです。だから、理解してください。お医者さんと話をしてください。〟と学校や教育委員会に伝えるだけで終わってしまった。
周囲は、〝転校〟〝引っこし〟等と口々に案を押しつけてきたけど、家族はいつも、
「自分の人生だから、自分のしたいようにしなさい。応援するから。」
とぼくの気持ちを尊重してくれた。ぼくは、いじめられて苦しい思いをした学校だったけど、もう一度、友達とやり直しをしたかったし、先生に受け入れてもらいたかったので、「この学校に戻りたい。この学校で病気を回復させたい。」と言うと、家族は、
「子どもが学校に行きたいと言ったら、大人はどんな事をしてでも行かせなければならない。学校に戻りたいっていうあなたの気持ちは間違ってない。間違っているのは大人だから、いろんな人に気持ちを伝えて、どうすれば安全に安心して学校に戻れるようになるのか、一緒に考えてがんばろう。」と言ってくれた。そして、ぼくに対する支援や配慮や環境整備に対し、学校が、「運営上の都合出来ない。この子だけが児童ではない。」と言った時でも、
「全ての子ども達が安全に安心して学校へ行けて初めて運営上上手くいっているということ。学校がおかしい。」と言いきってくれた。学校にとって、ぼくの存在は迷惑でしかないと感じて、絶望することもあったが、家族はそのたび、それを否定してくれた。
母は、ぼくを自転車の後部座席に乗せて、7キロ先にある病院やぼくのことを相談出来る行政機関、協力してくれそうな人を探しては、会いに連れて行ってくれた。時には、絶望するしかないかのような事をいう人もいて、心が壊れそうにもなったし、ぼくさえあきらめればと思うこともあったけど、母がいつも一緒にがんばってくれたことで、踏ん張ることができた。時間はかかったけれど、〝病気を治しながら学校に戻りたい。〟という思いに学校の先生や教育委員会が寄り添ってくれるようになった。それにより、少しずつ、学校で過ごせる時間は増えている。つらいと思うことや惨めに思うことが一つもないとは言わない。今でもPTSD症状に苦しんでいるし、みんなと同じように学校で過ごせないこともしんどい。でも、みんなと同じでなければ幸せになれないとは思わない。自分の人生を一生懸命受け入れてがんばることで、自分なりの小さな幸せに気づくことが出来ることを知ったからだ。
母から「いじめられたことで、自分がかわいそうって思ったりするの?」と聞かれた。ぼくは、「もう一度、同じ人生をやり直せって言われたら、しんどかったし、絶対に嫌。嫌な大人もいっぱいいたけど、いい人ともいっぱい出会えたから、その人達と出会えなかったらって思うと、それはそれでさみしい。」と答えた。母は嬉しそうに笑っていた。
ぼくに起こった問題は、きっと、誰にでも起こりうる問題で、今も尚、苦しんでいる子ども達がいる大きな社会問題だと思っている。そう教えてくれたのも家族だ。ぼくの家族はいつも、ぼくの気持ちを肯定してくれる。もうダメだってなった時でも、いくつかの道を、ぼくに選択させてくれる。ぼくのことを思って泣いてくれる祖母。いつもと変わらず甘えさせてくれる祖父。ぼくの思いを尊重して自由にさせてくれる父。ぼくのことを必要としてくれる妹。ぼくの可能性を信じて世界を広げてくれる母。この家族がいたから、ぼくは不登校状態でありながらも、心は不登校でなかった。
ぼくは、きっと、これからも、様々な問題に直面しながら生きていくことになると思う。でも、家族はがんばってさえいれば、どんなぼくでも認めてくれる。この家族がいれば、なんとかなる気がする。いつも、ありがとう。